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​COMMENT

「うみのうたごえ」の場面は磯だ。海と土地とが溶け合い、寄せ合い、せめぎ合う、中間領域。汀。「あわい」。そこでは水陸だけでなく、さまざまなものが混じり合う。空気、光、音。上下左右の方向感覚。すべてがゆらぎ、波打っている。そういう場所にこそ、生命があふれている。

しゃべり声は歌に転じ、身じろぎは踊りへと変わる。本来、あらゆる芸術作品は、そのような「あわい」のただ中で立ち現れるものだった。ヒトと動物の入り交じるところ、神と人が語り合う時間。おとなとこども。男と女。生と死。両極同士がぶつかり、あたらしい火花、きいたこともない音楽が、目の前に生じる。けれどもそれは、いつだって必ずあたらしい。当然だ。僕たち自身がその「あわい」を通ってこの世に出てきたのだから。

「うみ」は「海」であり「産み」であり「熟み」でもある。生命はたえず波打ち、遠のいていったかとおもえば、またあらたな、なつかしい相貌で、磯へともどってくる。同じかたちのものはただひとつもない。マキガイの渦はすべてちがう。エビの背の模様、カクレクマノミの筋の位置も。多様性こそが生命の豊かさにほかならない。

 磯で巻き起こる、ささやかで苛烈な騒動のなかに、わたしたちは、ばらばらであることの幸福を見届けるのだ。

いしいしんじ(作家)

 

 

 

ダンス、舞台、パフォーマンス…根拠のない苦手意識から無関心を装いどれだけ遠ざけてきたことか。僕は確信していた。自ら関わることなどありえない。そう、スタッフがあの日「彼らの表現は絵画や粘土だけではないはず」と口にするまでは。やまなみ工房は一人一人が笑顔で満たされ夢中で向かえることを何より大切にしている。いうまでもなく僕の偏った価値観が彼らの制約や制限となり可能性を止めることなど言語道断。僕は苦手意識と懺悔の気持ちを車に積み込み、選ばれた4人のアーティストとともに大阪府障がい者舞台芸術オープンカレッジ2017へ向かうことになった。会場に着くや否やその瞬間から驚きの連続。距離を縮めることの出来ない僕に構わず生き生きと新しい自分を発揮する4人。日を追うごとに人間的な成長を遂げ誇らしく輝く4人。凄い。いや、ここにいる人みんなが凄い。僕は我を忘れ、目の前の光景すべてに興奮し感動で心が破裂するのを必死でこらえた。一人一人が大切な価値ある存在。お互いがそう感じることで生まれる喜びと表現。目の前の小さな舞台上には理想の社会、いや理想の地球がここにある。僕は絵を前に泣いたことはない。自ら歌い踊ることもない。今僕は確信している。今年も割れんばかりの拍手と大粒の涙を流さずにはいられないことを。11月25日、ここで行われるダンス、舞台、パフォーマンスが誰よりも好きだから。

山下 完和(やまなみ工房 施設長)

 

 

職業芸術家は一度亡びねばならぬ

誰人もみな芸術家たる感受をなせ
個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ

然もめいめいそのときどきの芸術家である

ここには多くの解放された天才がある
個性の異る幾億の天才も併び立つべく斯て地面も天となる

~「農民芸術論綱要」宮沢賢治より抜粋~

障がい者の舞台芸術に関わって20年近くになる。その間、いつもこの宮沢賢治の言葉を大切にしてきた。障がいがあることをない人と比較して仕事をしないと心してきた。

芸術においては社会の制度からいかに自由に自己表現ができるのかということ。障がいを独自性ととらえること。健常者といわれる人も国籍や経済状況等、多様であり一様ではない。

各々の違いを認めることから他者に対する寛容性が生まれる。

その糸口を芸術は開くことができる。

美しくデザインされた社会よりも、多様な人たちが混在し、共生できる社会のほうがどれだけ豊かであるか。混沌のなかから青空を見いだすような、そのような表現に出会いたいと思う。

大谷 燠(NPO法人DANCE BOX Executive Director/神戸アートアートヴィレッジセンター 館長)

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